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NECO家たけぽんのレシピ

自己紹介させていただきまする

ども。当ブログの運用と制作を行う、NECO家(ねこや)のたけぽんと申します。

生まれは福岡県。鹿児島の祖父母の家で薪を割って風呂を沸かしたり、竹を使って物を作ったりの幼少時代を経て、小学性の時に親のパソコンMZ-80K2Eで、ベーマガを見ながらゲームを作ったのがきっかけで、パソコン大好き野郎になって、親のパソコンを借りていろいろとプログラムを作るのが趣味な学生時代を過ごしておりました。

すべてのはじまりだったかも

人文字プログラムやメガデモを作った高校時代

高校の時に親のお古のPC8801Mk-II SRで音楽を打ち込むのにはまって、雑誌・ベーマガに乗っているゲームもガンガン打ち込んだりしてプログラムを覚えました。

自分でもゲームを作ったりしたのち、高校時代は人文字シミュレーションツールをPC-9801で作って、体育祭の応援団に入って人文字のデザインを組んだり、物理部でのメガデモプログラムを制作したりして文化祭で発表したりしていました。

いまも伝統として続いている、筑紫丘高校の人文字

パソ通とシステム屋バイトの大学時代

大学は、九州工業大学。パソコンが好きで入ったんですが、このころからパソコン通信やパソコン雑誌へのプログラム投稿にはまって、作ったプログラムや音楽をパソ通に投稿、フリーソフトを雑誌に投稿してその見本誌をもらって本を読むのを楽しんでおりました。雑誌を買うのも結構お金かかったので、掲載見本誌がもらえるのは本当にありがたいものでした。

大学時代後半には某西日本にある技術開発会社でアルバイトをしてまして。そこで社内インフラの整備とか、ノーツドミノサーバーのアプリケーションとか、支社とのVPNの構築とか、ダムの水量管理プログラムの作成とか……、いま考えるとかなりいろいろな経験を積ませていただいたわけで。そのおかげで、ずいぶんとパソコンとネットワークに詳しくなりました。

編集目指してアスキーへ

パソコン雑誌の編集者になりたくて株式会社アスキーに面接。

面接のときには名だたる編集長と会えて、さらに当時の社長の西和彦さんとMIDIのコンポ―サーの話とかで話したりできたのが印象深かったです。30人くらいの新卒社員として入社。後から聞いたんですけども、その年の応募者は2万人くらいいたらしくて。よくもそんな狭き門を通れたもんだと自分の無茶っぷりに震えたりもしました。

とはいえ、編集未経験のペーペーです。編集部でいろいろと勉強したり徹夜したり怒られたり勉強したり腰を痛めたりしながら、雑誌編集者の道を歩き出しました。

初めはDOS/V ISSUE編集部で勉強していたのですが、編集志願の新卒は必ず一度は配属される(当時)という報道局に移動。当時は、CMSとかそういうものがまったくない現場での毎日のWebニュースの配信。ニュース記者が自分でHTMLかいて記事を公開する手続きをしてという、スーパーアナログな仕組みに愕然としたものです。

デジタル化を進めたり

紙が飛び交う編集部、特にデイリーのニュース配信サイトでその手間はすさまじく、そんな環境に思わず口を出してしまい、記事配信管理プログラムを作らせて、まじで、とお願いして作成。

編集長がチェックしたかどうかの進捗管理と記事公開までを、投稿サイトみたいに管理できるような仕組みを作ったりしつつ、編集者というか報道記者としても毎日記事を書きまくる日々。毎日終電まで残業していて残業代の上限を突破してしまっていたので、当時の時給が300円台まで落ち込んだのがいまでも印象深いですw 某GSミカミのヨコシマ君かよ。

ゲームをやりたいんじゃーってことで

毎日深夜までニュース記事を書いたりじゃなくてゲームをやりたいんじゃーと社内で叫んで、社外からも叫んでいたら、当時のテックウィン編集チョ・山川さんが聞きつけてくれまして。変な奴が報道局におるらしいから、うちの編集部に入れてやれと。

晴れて、大好きだったパソコン系エンタメ編集部へ。初の仕事がネットラジオの企画と、ネットワークRPGを作るツールの企画。ほんと嬉しかったですね。

出演者の交渉をするためにつボイノリオさんを探して、日本放送を皮切りに電話かけまくって名古屋でラジオをやってると聞きつけ愛知のラジオ局に電話をかけてアポとって……。よくそんなわけ解らない編集者につボイさんも会おうと思ってくれたなぁと。声優さんとしては当時、機動戦艦ナデシコで活躍されていた南央美さんにアポを取らせていただいて、ラジオ番組の企画を進めさせていただきました。

同時進行で進めたのが『ネットワークRPGメーカー2000』。電話帳のような企画書を読みながら仕様を理解しつつ検討しつつドワンゴさんとあーだこーだやりながら開発。当時すでにロビーサーバーの仕組みとかは別のゲームでできあがっていたので、それを『ネットワークRPGメーカー2000』用にカスタマイズ。ドワンゴつくったネットワークゲームってことで『ネダンゴ』と命名されたそのサーバーを構築することに。

「ってか、サーバーは俺が作るんかーい」と叫びながら、ゲームサーバー群を構築。RADIUS、IRCD、ファイルサーバー、ロビーサーバー……。ゼロにちかい知識と経験からのサーバー群構築は毎日が激務。時間との戦いでした……。当時、社内に社外向けのサーバーを設置したいという無茶ぶりを聞いてくれたシステム部の人たちにも感謝。「始末書でも反省文でも何でも書くからとにかく外向けのサーバーを社内に置かせて! ついでに配線工事もして!!」とお願いしたのを今でも照れ臭く覚えております、はいw 反省文書かなかったけど←。

レア! ネダンゴサーバーの写真

ちなみに、ネダンゴサーバーを構築する前の写真が残ってたのでここにペタリ。ネダンゴプロジェクトが動き出すときに編集部の引っ越しがありまして。編集部が引っ越す前にサーバールームを構築する必要があり、自分は誰もいないオフィスフロアにこもって、サーバールームを作ってたんです。床引っぺがして配線引いて、サーバーラック組み立てて、設置して、OS入れてからの構築。いま考えるといい思い出ですw

これが、いまやクラウド上でマウス操作だけでいろんなサーバーをくみ上げられるんだもんなぁ……。時代の進化はすさまじいものです。

enban.netプロジェクト

アスキーがデジタルコンテンツを配信するってことで、満を持して立ち上げたプロジェクトがenban.net。名前決めからプロジェクトに参画させていただいて、結局名前は「エンターテインメントをバーン!と配信するぜ」とかいうところからエンバンって決まったような。自分も名前の最後に「ン」が付くってのはすごく良いな!と思って、そういう発言をしたら「小島さんみたいなことを言いやがったな」と山川さんに言われたのを覚えています。そういや、ログイン、アイコン、テックウィン、全部ンが付くなぁ。そういうコンセプトだったのか……。

ちなみに、enban.netは自身のサイトでのコンテンツ配信だけではなく、大手プロバイダー向けの有料コンテンツやiモードアプリの情報サイトとの連動など、ネットワークコンテンツ配信のプラットホームを目指したサイトでした。

ここでしか見られない濃いサービスを提供する“enban.net”──アスキー発表会詳報
(株)アスキーは24日、都内のホテルで記者発表会を開催し、ブロードバンド事業4社と提携して、オリジナルの有料コンテンツを含むブロードバンド向けコンテンツ事業“enban.net(エンバンネット)”を25日に開始すると発表した。
アスキー、ブロードバンド事業4社と提携しエンターテインメントコンテンツ配信サービス開始
(株)アスキーは24日、アットホームジャパン(株)、ニフティ(株)、日本電気(株)、(株)有線ブロードネットワークスの4社と提携し、エンターテインメントコンテンツの配布と販売を行なうサービス“enban.net(エンバンネット)”を25日に開始すると発表した。
アスキー、ブロードバンド向け娯楽サイト「enban.net」を開設
Mobile:アスキーのエンターテイメントサイトに「iアプリチャンネル」登場

enban.netでは、ウェブサイトのデザイン、コーディング、コンテンツ制作、ゲーム制作、ラジオ収録、配信、ダウンロード販売の仕組み製作、とにかく、作る側のほぼすべてを担当しました。

毎日配信のコンテンツで、月に60本以上の企画をほぼすべて見ていたので……いま考えるとほんと大変だったんだろうなとは思いますけど、すっげ―楽しかったですね。ここら辺が自分の物づくりスタンスの基礎になったとは思います。

サミーへの吸収合併

そんな楽しいアスキーライフでしたが、安泰ではありませんでした。いろんな原因がありますが、自分がいたゲーム系の事業部がサミーへ吸収合併されまして。enban.netもサミーへ吸収合併ということに。ただ、そこは鉄板のサミーさん。サンシャイン60の一等地でのコンテンツ制作を半年ほど続けさせていただきましたが、enban.net自体は立ち上げてすぐだったし売り上げも少なかったため存続のピンチに……。そんな折、山川さんに誘っていただいたこともあって、サミーを退社して山川さんが立ち上げた会社にて一緒にソフト開発などをする方向へ。

山川さんところで勉強

山川さんの所では、またいろいろな開発案件にかかわらせていただきました。省庁がらみのサイトや仕組みの制作から、ガラケー向けコンテンツの開発、出版、パッケージソフトの制作、動画配信サイトの構築。この時に流行っているもので関わらなかったものはなかったんじゃないかってくらい色々な勉強をさせてもらいました。

有限会社NECO家を起業

山川さんのところで勉強させてもらった色々をもって起業。インターネットラジオ番組制作と配信をしながら、ソフトウェアの開発を請け負うソフトハウスってことで「ネットワーク&コミュニケーション ソフトハウス」という意味を込めて「NECO家」を立ち上げました。荻窪の木造三階建の掘立小屋に収録スタジオを自作で作り活動開始。

プロバイダーさんへのラジオ番組製作配信のほか、アニメ動画配信会社さんのホームページ制作、Webサイトの構築、ITコンサル的な活動をしつつ、自社コンテンツの拡張を夢見ていろいろ頑張っておりました。

目立った活動はネットラジオの制作と配信でしたが、裏では開発案件も色々受けさせていただいており、NECO家は広報活動としてのメディア活動、開発請負としての技術提供の二本柱で活動しておりました。

7年間のNECO家自社活動からの転換

2010年、2011年は激動の年でした。それまで順調に伸びていた弊社の開発請負案件が立て続けに、クローズになる出来事が。開発請負にとって、クライアントの不調はダイレクトに響いてきます。自社コンテンツのネットラジオは、広報活動に特化していたためあまり利益は大きくなくて。会員数は当時日本のPODCASTランキングの9位に入る(@nifty調べ)くらい多いものの、配信を続けていくには厳しいぞ、という経営判断をしなければいけない局面でした。ちょうどそのころ、勢いのあったクライアントさんがありまして。それがパチンコ業界でした。

アニメ系コンテンツの制作などにもパチンコ業界積極的に力を入れてきていた時期で、そのクライアントさんのひとつである、首都圏のホールディングス会社さんのオーナーさんに、NECO家の技術部分を気に入っていただけて。そこと合流することに。

ネットラジオ番組制作は規模を縮小しながらも続けていくことができ、かつスタッフみんなの生活も安定するってところで、社長判断として合流を決意。2011年の大震災を乗り越えて、スタッフみんなで活動できる基盤ができました。

その後はSNSの開発を……

企業コンプライアンスを考慮して、ホールディング会社さんでの活動は記載しませんが、ここでも、素晴らしい経験をたくさん積めました。

ネットワークインフラのクラウド化によるコスト削減、開発環境の更新による開発工数の減少、仮想環境をつかったテスト環境の並列構築、負荷分散・クラスタ化の効果測定、GCPやAWSを使った画像解析やAIの研究、メディアサーバーや画像変換APIをつくってのサーバー間での処理、採用人事、広報活動、メディア企画、M&A。NECO家のころには体験できなかった、業務経験を積めたのも糧になったなーとおもっています。

新型コロナウイルスの影響を受け離職

活動していた企業のSNSは計画ラインにそって有料会員も増えており売り上げも伸びてきていましたが……。それどころではない事態が起こってしまいました。新型コロナウイルスの流行と非常事態宣言の発令です。

親会社のメイン業界であるパチンコ業界には深刻なダメージとなりまして。そういう状態で、業務の遂行をしていくことが困難という経営判断により、事業部が解散となりました。俺だけではなく、部下を含め全員が離職。アスキーの時のように事業部だけでもほかに受け入れしてもらえるような状態にできなかったのが自分の心残りです。

情報更新を夢見て

自己紹介の情報更新を夢見ていまはいろいろと就職活動中です。

2020.6.20 初稿公開
2020.7.7 誤字修正

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